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2019-07-31

リクルート時代の新槇町ビル(東京駅八重洲口)の思い出

武庫川女子大学での
第3回 日本顔学会関西支部研究会「顔学の新たな可能性を探る」

の「80周年を迎えた武庫川女子大学」(武庫川女子大学 薬学部 学部長 篠塚和正先生)のお話で出てきた武庫川女子大学 東京センターが入っているこちらのピアノの形のようなビル。

私、このビルで働いていたのです!

リクルート販売部時代は銀座・東京・上野で働いていました。

新橋駅前の当時本社だったリクルートG8ビルにあった「株式会社リクルート販売部東京統括部銀座営業所」から、組織変更で、

こちらの東京駅八重洲口駅前の新槇町ビルに「株式会社リクルートマーケティング局販売促進部東京営業所、一課、二課」が1988年7月に移ってきたのでした。

武庫川女子大学 東京センターは新槇町ビル14階でしたが、私がいたリクルート販売促進部東京営業所は5階か7階くらいに入っていたと思います。

株式会社リクルートマーケティング局販売促進部東京営業所、一課、二課は、

一課が東京南部、二課が東京中央部、東京東部、北部を担当。

書店でいうと一課は港区、品川区、渋谷区。二課は中央区、千代田区、文京区、台東区以東でした。

※新宿区、豊島区、板橋区、練馬区、中野区、杉並区及び多摩地区の東京西部は新宿営業所管轄。

その後、新槇町ビルの東京営業所、一課・二課が、渋谷営業所、東京営業所(新橋のSビルに)、上野営業所とさらに組織変更。

台東区をメインに担当し、他に荒川区と墨田区を担当していた私は上野営業所の配属に。

上野営業所は東京23区の城北地区(豊島区を除く)と城東地区、そして、それまで千葉営業所管轄だった千葉県と茨城県の常磐線沿線エリアが上野管轄に。

住宅情報では近い将来、常磐新線(つくばエクスプレス)が開通するってことで「常磐新線」の文字が入ったPOPをよく貼った記憶があります。

新槇町ビルの同じフロアには我ら販売促進部のあとから、住宅情報誌事業部、就職情報誌事業部(ビーイング、とらばーゆ)の営業所も入っていました。
カーセンサーも入っていたかも?

懐かしくてブログに書こうと昔の写真を探し出しました。

どれが東京営業所時代の新槇町ビルの写真?

デスクに灰皿があるのが時代を感じさせますね。私がしているネクタイはたぶんTAKEO KIKUCHI(タケオキクチ)です。

この写真。

ブックエンドに「TOMOKAZU」とあり、友一さんだから東京営業所の新槇町ビル時代のだ!

と思いましたが、どうもこの狭い感じや背景からして上野の雑居ビルにあった上野営業所っぽい。

新槇町ビルにいたのは、1988年7月から1990年9月まで。

後ろに「フロム・エーのカーカキンキンカーキンキンのCM」でおなじみ、カーキン人形のバルーンがあります。

それまで毎週火曜日発売の「週刊フロム・エー」が、火曜日、金曜日の週2回刊になったのが1989年春。※火曜版は「From A」、金曜版は「From A to Z」で別雑誌扱い。

1989年春の写真であれば新槇町ビルのものですが、上記CMソングの「カーキン音頭」(河内家菊水丸)は1991年なので、やはりこの写真は上野営業所のものですね。

私とカーキン人形のバルーンが一緒に写っている松戸駅前の書店(レディさん担当店)店頭でのデモ販(デモンストレーション販売)写真もありましたし。

では、「TOMOKAZU」と書かれたブックエンドは?

友一さんではなく、上野営業所にいた智和くん?のもの?

いや違う、上野の時にいたのは和幸くんだったはず。

ん???、よく見るとこれはギリギリ私のデスク上にあるようなので(上に貼ってある紙が私向きですし)、私の持ち物。

つまり、友一さんが株式会社リクルートフロムエーに異動後に私が譲り受けたもののようです。

ちなみに写真にある黄色のタコみたいなのが火曜(タコで火星人っぽいので)、グリーンのイカみたいなのが金曜のキャラクターだったと思います。

この写真は上野営業所時代ですね。入口出てすぐがエレベーターです。上野営業所はアメ横のど真ん中にありました。就職情報誌事業部の上野営業所は御徒町寄りの別のビルで。

私が座っている島が書店担当で、左側が売店担当の島です。上野営業所では書店のチーフだったので奥のほうに座っています。

 

これは上野か新槇町ビルか迷うところですが、90 8 3 とあるので1990年8月3日で新槇町ビルの東京営業所時代のようです。後ろにあるパソコンは庶務が販売部数、いや配本部数の打ち込みをするのに使用するもので、我々営業マンは使っていませんでした。

で、ずっと探していた確実に新槇町ビルの東京営業所時代の写真がようやく出てきました!

舌を出したアインシュタインポーズは他にもあったので、この頃よくやっていたようです。

90 2 6 で1990年2月6日に撮影されたもので、
私の後ろに「東京2課 今年も一気に独走だ! 新革命〜」みたいなスローガンが。

当時のリクルートの風景です。

「今年も一気に独走だ!」とあるのはこの時が、1〜3月の第4クォーターで、第2クォーター、第3クォーターもウチの東京2課は業績がよかったのでしょう。

1989年の夏頃は業績がよくて、達成賞か、部で1位かで取締役の吉富さんと一緒にクルージングパーティーをしたりしました。

活 伊勢海老料理の「中納言」で食事会とか、今から思えばバブル時代でしたね〜。

東京駅八重洲口でもっともトレンディーだった新槇町ビル

正面の変顔が私です。仕事中、急にカメラを向けられてこんな表情をしていたのでしょう。

89 11 18 で1989年11月18日。後ろの達成ボード、いや垂れ幕も当時のリクルートの象徴でした。

それが貼ってあるパーテーションから向こうが住宅情報誌事業部の営業所だったはずで、これも新槇町ビルの東京営業所時代です。

手前の革のセカンドバッグも時代を感じさせます。これ、たぶんレノマ(renoma)のセカンドバッグですね。

そしてこちら!銀座のG8から東京駅の新槇町ビルに引っ越してきたばかりの写真のようです。

後ろに住宅情報などのラックが裸で、または段ボールに入った状態であります。

私も茶色の革のセカンドバッグ。これはたぶんケンゾー(KENZO)のものだったと思います。

そしてこのネクタイは、MEN’S BIGI(メンズビギ)ですね。

その前にはリニューアル前の初代B-ing(週刊ビーイング)のビニール袋があります。

150円で下手すりゃ5cm以上の厚さになったので、こういうのを配りながら書店員さんとコミュニケーションをとり、いい場所に置いてもらうのも仕事でした。

書類立ての上にあるのはB-ingの競合誌であるDODAのスイングポップ。まあ、戦利品ですね。

 

同じ日に撮影されたもの。窓から見える風景は確実に新槇町ビルから見た当時の東京駅(大丸東京店が入っていたビル)です!

ここでも変顔と変なガッツポーズをしていますね。

打ち合わせ用の丸テーブルやマネージャー(課長)用のデスクっぽいもの雑然と並んでいて引っ越してきたばかりなのがわかります。

と思いましたが、違いましたね。

DODAの創刊は1989年1月だったはずなので、この写真が1988年7月のわけありません。

日常的にこんなに雑然としていたわけではありませんが、1989年以降の写真です。
まあ、次から次に新しい雑誌と販促物、そしてラック等の什器が届いていましたから、だいたいこんな感じだったのかもしれません。

ラックといえば、タケノコ式ラックがありました。
中綴じで比較的薄い「フロムエー」や「とらばーゆ」がよく売れる売店用に開発されたもので、丸形の筒状をしていて雑誌を丸めながら左右交互に入れて高く積み上げるのです。
そうすることですぐにどこにあるかがわかりますし、購入者がすぐとってすぐ売店員に出して短時間で会計できるようになる優れものなのです。
新聞なんかも当時の駅売店(キオスク等)ではこんな感じで積み上げて販売していました。

窓側のテーブルにずらりと並べられているのが、各情報誌のポスターやPOP類です。

それからリクルートが使っていたこのブルーに黒の椅子。今から思えばめちゃめちゃ座り心地がよかったです(仕事するのに)。同じのがあれば欲しい!

今でこそ、東京駅は丸の内側も再開発されて、東京駅上には今の株式会社リクルートホールディングスの本社が入っているグラントウキョウサウスタワーと隣のノースタワーの超高層ビルがありますが、当時、八重洲側は新槇町ビルが1番高くてモダン(?)、今でいうクール、おしゃれなビルでした。八重洲地下街とも繋がっていて。

銀座・有楽町寄りの八重洲ブックセンター(YBC)側もただのオフィス街で、地下に降りれば当時も世界最大級だった八重洲地下街があったものの、地上は飲食店がほとんどなく、日本橋駅近くまでいって立ち食い蕎麦の「小諸そば」があるくらいでした。

※日本橋駅周辺だけで「小諸そば」が3〜4店舗あったはず。

あ、思い出した!

新槇町ビル時代は丸の内の三菱商事のOLと合コンもしましたね。

普段は東京駅をはさんで働いている、

丸の内の女と八重洲の男が出会う。

そして3対3で銀座で合コン。

トレンディードラマにありそうな設定。

と、いうわけで、

東京駅の八重洲口では新槇町ビルがもっともトレンディーなビルだったのです!

 

 

 

 

 

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